「ハンス」
耳に心地良い少し低音の声に、30を目前にした男は歩廊で振り返った。淡い緑の涼しげな服の青年が歩いてくるところだった。
「――だったね。……ああ、そんなことはしないでくれ。嫌いなんだ」
ミキトが心持ち眉を寄せてそう言ったのは、ハンスが無言で跪いたからだ。
黒い髪を短く刈り上げた頭を下げた彼は動かない。ミキトは困ったようにため息を吐く。
「城で働いているのだろう? 認められて職に就いているのだろう」
「城で働くからこそ、です。城外の者のように気楽ではいられない。礼儀は尽くさねば」
そういうものなのだろうか、とミキトは思う。ヴァイスが特別なだけなのか。
「あなたの主は誰だい? サリクスさまだろう。わたしはただの彼女の客だよ」
「あなたさまはサリクス王女の御婚約者であらせられます」
「だからと言っても、結婚すると決まったわけではないよ。わたしがこの話を認めたわけでもない」
「―――――王女をお嫌いですか?」
不安からかどんな感情からか硬い声のハンスに、笑んだミキトは、いやと首を振る。好きだよ、と。
「とても可愛らしい方だ。確実に好意を持っている」
「それでは――」
「彼女もわたしを好いてくれているだろう」
その言葉によって引き起こされる反応を見定めるようにハンスを見遣り、「けれど」とミキトは続ける。
「兄妹のようなものだとわたしは思うんだ。無理もないけれどね。歳が離れているのはあなたもそうだけど、わたしは彼女の長兄殿と同じほどの年齢だから」
「第一王子クライブさま……」
ハンスの口にした名にミキトは頷く。彼自身はその本人に会ったことは数えるほどしかない。
それもそのはず。ヴァイスとコールダリィの付き合いは浅い。まだ10年ほどだ。
両国がそれぞれ親しくしている国、アヤトの王子とコールダリィの王女――サリクスの長姉――が結婚したのを期に、
友好関係を築こうと少しずつ機会を見つけて、やっと今こうしているのだから。
当人は共に望んだものではないけれど、大臣などは早く婚礼を挙げたくてうずうずそわそわしているだろう。
互いに大きくはないけれど小さくもない国だから。手を結べば強くなれる。
ミキトは乗り気でなかった話だ。サリクスとてそうだろう。
けれど彼は断る理由を失くした。気に入らなければすぐさま断って帰国しようと思っていた。それが彼女は……
「ハンス。もう一度聞こう。――あなたの主は誰だい?」
深い深い緑の瞳。その色にハンスは囚われたようになる。深く生い茂る森に迷い込んだような錯覚……。
けれどそれは一瞬のことで、逸らしそうになる視線を真っ直ぐに向ける。
「コールダリィ国第七子第五王女、サリクス=コルトックさまです」
確かなこと。ハンスの主はサリクスであるということ。間違いようもなく主人であるということ。
ミキトは軽く頷く。本当に聞きたいのはそれではないという風に。
「では、心の主は?」
ミキトは問う。見透かすような底の知れぬ瞳で。何を言っているのかわからぬといった様子のハンスに。
わかっていることをあえて聞いたのは、これを聞きたかったから。二つを並べて問うことに意味があるのだ。
答える様子のないハンスに、彼は続ける。
「主を大切に想い幸福を願うのはいいことだろうと思う。けれどあなたや周囲の考える幸せが、本当にサリクスさまの幸せかな?」
「何が……仰りたいのですか」
「いや。コールダリィは他国に比べ自由な国だと聞いている。それは王族、貴族、民、誰もにあてはまるのだろう? 子供も大人も年寄りも関係なく」
「―――――」
この男は危ない。危険だ。
――心のふたを容赦なく開けようとする。押し隠した感情(モノ)を引きずり出される。
ハンスは固くキツく目を瞑る。閉ざされたまぶたの向こうでクスリと笑み、背を向けて歩き出す気配を感じた。
「わたしも彼女の幸せを願っているということだよ」
パタパタと遣って来る足音に、ハンスは足を止め振り向いた。
「ねぇハンス。この髪留め、ミキトさまに買っていただいてしまったの。似合うかしら」
笑顔で尋ねる主を彼は落ち着かない気持ちで見つめる。髪の一部を彩った桃色の留めは、安物ではあるが確かにサリクスに合っていた。彼女自身のイメージのような色。
「よくお似合いですよ。よかったですね」
乾いた唇を通って出たのは、思っていたのと違う、棘を感じる声だった。はっと相手を見ると怪訝そうな顔をしている。
傷つけてしまうかも……。気付いたが、遅かった。意思とは関係なく言葉は止まらない。
「ミキトさまはよい方のようです。婚約のお相手がサリクスさまを大切に想って下さりそうな方で安心しました」
自分にとってはともかく、彼女にとってそうであってくれるなら。素直に喜ぼう、喜べると、そう思っていた。幸せを願っていると言ったのは嘘ではないだろうから。――なのに、何故。
「あの方なら護って下さいますね、きっと。私などもう必要ない」
「な、に……?」
何故今更。彼女を傷つけるだけの不必要な言葉は言わないでおこうと決めていたのに。……何故、溢れる。
「じきにお別れすることになるやも知れませんね」
「待って、ハンス……!」
捲し立てるような口早な自分にハンスは気付いていた。もうお終いなんだという思いが頭をよぎる。もう引き返せない。もう傍にはいられない――。
目の前ではサリクスが瞳を揺らして見上げている。この少女を傷つけるんだと思った時、胸が痛むのと同時に、歪んだ喜びを感じた。……どうせなら、もういっそ、壊してしまいたいと。一方で思う。そんなことが自分に出来るはずがないと。
「おめでとうございます」
刹那、頬に痛みを感じた。打たれたのだとは考えずともすぐわかった。
「………っ!」
涙をためた青い瞳で睨み付けた少女は、俯いて唇をかみ、駆け出して行った。
「さようなら、サリー……」
――気持ちを、自覚してしまったから。
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