――ユキヒコ、と彼女は言った。
それに対する返答はなかったが、そう口にした本人は確信しているようだった。
瞳を、顔を、雰囲気を、見れば明らかだった。
突然のことに誰もが目と耳を疑った。タルシーは不審そうな顔になり、アリーアは不思議そうに、
レイナは興味深そうに、姫君を見た。フリッツは瞬いた。
「何のことでしょうか」
「わたくしのことを忘れてしまったの……?」
その態度に由梨はショックを受けた様子で、すがるようにブレスに詰め寄った。
「わたくしよ、由梨よ。霧澤城の由梨姫ですわ。お前の主でしょう……?」
由梨の必死さに王はためらいがちに声を掛ける。人違いということもあるのではないかと。
けれど彼女は首を振った。
「白い髪に赤い瞳なんて、この国にもそうはいないのではないですか?」
その言葉に誰も声を返せなかった。確かに彼は特徴的だったから。そして彼がどこからか流れてきたのを
拾われた養子であることも知っていたから。……アイラは何も言えなかった。
「雪彦、お前を探してわたくしはやって来ましたのよ」
「姫……」
「ああそうです。お話をしましょう、そうすれば思い出してくれるわね、きっと」
一人で話を進める姫と、淡々としながらも戸惑いを見せるブレス。
「あの……っ」
声に、黒い瞳がアイラを向く。
「あの、申し訳ありませんが、あまりに、突然のことで……」
「そう、ですわね。アイラさまは雪彦の今の主なのですものね」
「……ブレス、です」
「はい?」
「ブレスです。……ユリさまにとってはともかく、あたしにとっては」
固い表情のアイラに由梨は微笑う。
「さまはいりませんわ。由梨、もしくは由梨姫とお呼び下さい」
微笑みに、アイラは無言で返した。黒の美しい姫は可憐に笑んでいた。
娘の様子を見かねた王妃が声を掛ける。
「姫さま、娘の言うこともありますけど、何よりもお疲れでしょう」
「長旅ですからな。落ち着く時間も必要ですし、今日は身体をお休め下さい」
王妃に王にと続けて言われ、考えた由梨はすぐ微笑って頷いた。
「そうさせていただきますわね」
と、龍之介を連れて退出していった。少し惜しそうにブレスを見つめ、由梨は背を向け、
龍之介は他の誰もを視界に入れないつもりのように、ブレスだけを一瞬睨みつけ、主の背だけを見て去って行った。
「ブレスは極東の者だったのか……?」
静かになった部屋に呟きが広がる。タルシーの言葉にレイナがでもと口を開く。
「証拠なんてないもの、ユリさまの思い違いということも……」
そうは言いながらも違うとは言えない。誰も、真実など知らない。本人さえも。
心配そうに皆がアイラを見つめる。
「アイラさま……」
「アイラ」
「……あたしも戻るわ」
そうかと頷く父にくるりと背を向け、メイファに手を引かれて歩き出す。
ちらりと仲間たちの視線が向けられる中、一歩踏み出した彼は……
「アイ――」
「あなたは」
再び呼びかけた声は遮られた。
「ブレス、あなたはいいわ」
言って、また歩き出す。彼女は振り向かずに。
「……わかった」
短い返事だけが、静かに返った。
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